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堺から古寺巡礼

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一休寺

 宇治から少し奈良の方へ南下すると、京田辺市に入る。京都、大阪、奈良の県境のあたりは、今でこそ京阪奈学研都市として少しずつ開発が進んでいるが、3つの都市の中間地点というより、残念ながら辺鄙なところという印象の方が強い。そのJRの京田辺駅から1キロ程歩いたところに一休禅師由来の酬恩庵(一休寺)がある。
 この酬恩庵は一休禅師が晩年を過ごし、その波乱に跳んだ生涯を閉じた場所であり、現在宮内庁管轄の墓所となっている名刹である。  境内には、一休禅師が応仁の乱の戦火を避けて、京都東山から移築された虎丘庵、その後江戸時代に入って加賀前田家三代利常によって再建された庫裏、方丈など、一休禅師が広く、長く慕われた歴史が凝縮している。
 石畳の参道は両側に紅葉が植えられ、紅葉の名所としても知られるが、その奥の立派な方丈を取り囲むように配置される枯山水庭園も併せて一休禅師の記念碑的な空間が作り出されている。



 「とんち」の一休さんの話なら誰でも親しんでいると思うが、良く知られるのは幼少期の頃の話で、晩年の一休禅師には、風流な趣味人という姿はあまりイメージが結びつかない。一休禅師に師事した村田珠光が侘び茶を生み出し、それが武野紹鴎、千利休と継承されて茶の湯として確立されたという歴史的経緯は知られているが、それはあくまで後世の時代になっての事だと思う。
 一休禅師が大変に慕われていたことは確かなことと言えるが、それにも増して境内全てが優雅で、華美とまでは言わないものの壮麗な空間であることが不思議に感じたが、公開されていた宝物殿を見てその理由が直ぐに理解することが出来た。
 宝物殿には、有名な一休禅師画像や、雀の戒名が記された葉室号など良く知られた書画と並んで、松花堂昭乗、石山丈山といった江戸時代初期の文人の書蹟が展示され、それらは佐川田昌俊が晩年にこの地に隠居し、その境内に黙々庵を結んだ際に残されたものとされていた。

吉野山 花待つころの 朝な朝な 心にかかる 峰の白雲

 幕末の頃、多くの人に親しまれた佐川田昌俊の歌だが、佐川田の名前と共に次第に忘れられていったように思う。佐川田は、はじめ上杉景勝に仕えたが、関が原の戦いの後、徳川家家臣の永井直勝に見出されて永井家の家臣となり、大坂の役では永井軍の大将として参加、その後は山城淀藩の家老となり、実質的に藩政を主導したとされる。智勇兼備の名士であり、茶道を小堀遠州に師事、歌道にも優れ、集外三十六歌仙の一人に数えられる。



 前述の方丈を囲む枯山水庭園も、佐川田昌俊、石山丈山、松花堂昭乗の合作として伝えられている。明るく、幾何学的な立体造形を取り込んだ庭園は直感的に遠州の作庭との繋がりを感じさせるが、方丈を取り囲むように展開する外部空間の多様な変化が、伽藍全体にまで反映しているように見える。こうした徹底した整備が、一休禅師の記念碑的な様相を生み出していて、同時に非常に緻密に創られた繊細な空間になってるように思う。
 一休禅師と江戸時代初期の文人サロンとのつながりは一見分かりにくいが、山城淀藩の役職を辞して隠居した佐川田が、茶の湯の文化と集大成として、あるいは偶然の結果としてこの地に出現し、それが当時の面影を繊細に現代にまで残されている。この事に、もう少し注目しても良いのではないかと思う。



方丈へ進む中門前 本堂 「このはしわたるな」の看板