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東大寺

 日本に伝わった香の話と言えば、まず真っ先に東大寺を取り上げるべきかと思う。正倉院に伝わる蘭奢待(らんじゃたい)は、その歴史的経緯からも日本屈指の名香といえるが、この蘭奢待が最上級の伽羅として珍重されてきた歴史を顧みても、日本の香りの歴史の中心に東大寺があったことは理解できると思う。
 伽羅とは、東南アジア原産の沈香木が分泌した樹脂の中でも、特に良質のものとされる。近年の研究によれば、1000年経っても香木の香りは劣化しない事が明らかになり、一般に伽羅は古いもの程上等と見なされるが、そのように伝えられてきた根拠が実証される結果になった。
 東大寺には、もうひとつ日本屈指の名香とされる「全浅香」と呼ばれる伽羅の香木が伝えられてきた。この香木は752年、聖武天皇の治世、蘭奢待よりも古く、東大寺創建頃に伝来したものとされている。この二つの香木は、後の時代になって、足利義満、織田信長など名だたる権力者によって削り取られ、そうした史実も含めて日本随一の名香といわれてきた。



 こうして香りの歴史の中では、「東大寺」の名前そのものが最上の格式ともいえるが、実際に日本の歴史の中でも東大寺は常に大きな役割を果たしてきた。
 奈良市の象徴であり、日本最大の木造建築物である大仏殿は、過去に二度焼失したが、その二度共に歴史転換期の大事件であり、また当時としては間違いなく世界最大規模と言える大規模な再建が行われたことも東大寺そのものの歴史と考えても良いかと思う。それだけの騒乱の中でも、正倉院の宝物は守り伝えられ、上記の二つの銘香木も今日まで伝えられている。
 東大寺の最初の焼失は、1181年の源平合戦中の出来事だが、後の平家滅亡と、それに続く鎌倉幕府による武家社会の到来の契機となる事件だった。この時は重源によって再興され、日本建築史ではその際の独特の建築様式を天竺様、あるいは大仏様と呼ぶが、東大寺の伽藍内では南大門のみが現在まで残っている。
 その後1567年に、松永久秀と三好三人衆の戦いによって大仏殿は二度目の焼失となった。江戸時代に入っての公慶上人の尽力による二度目の再建は1691年とされるので、焼失から120年以上経った後という事になる。信長が蘭奢待を切り取り、秀吉による天下統一から関ヶ原の戦いを経て、江戸時代に入り、五代将軍綱吉の代になってようやく再建されたことになる。



 長い歴史の中で重要な役割に位置した大仏殿とは対照的に、お水取りでよく知られているニ月堂や、聖武天皇による大仏建立以前に作られ、今日でも天平時代の建築がそのまま残る三月堂などが立ち並ぶ景観の方が、実は古くからの東大寺の佇まい、天平時代の景観を今に感じさせるように思う。
 緩やかな斜面に建つ二月堂は、大仏開眼供養と同じ752年に実忠和尚によって創建され、今日まで続くお水取りの行事もこの年から行われたとされる。江戸時代にお水取りの行事中に焼失、その二年後に再建されたが、焼失前の建築を良く再現しているものと伝えられている。
 建物の一部が斜面にせり出し、床下で組まれた柱と梁によって建物を支える建築は、例えば京都の清水寺などにも見られる懸造(かけづくり)と呼ばれる形式だが、せり出した舞台はお水取りの松明のために作られたものとされ、特徴的な内部構成は国内でも例を見ない特殊な形式の建築と考えられている。
 また、日光菩薩、月光菩薩で有名な三月月堂は、東大寺の建築の中で最も古く、東大寺の前身寺院にあたる金鐘寺に属した仏堂であり、大仏開眼以前に造られたとされる。
 広大な奈良公園内に点在する様々な建築群をまとめて、漠然と東大寺であるかのように感じるが、美術館のように鑑賞用に整理されて陳列している訳ではないので、むしろ個々の様相に着目してひとつずつ時間を掛けて見ていく方が、東大寺の奥深さが堪能できるように思う。



大仏様様式の南大門 再建された二月堂 二月堂から大仏殿を望む