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大徳寺孤篷庵

 京都市内の北側、洛北の紫野にある大徳寺は、誰もが知る臨済宗の名刹だろう。
 応仁の乱による焼失後、堺衆の支援により一休禅師が再建した伽藍や、その後秀吉の時代に再建され、千利休切腹の一因にもなった三門、20か寺を超える塔頭は建築や庭園で名高く、歴史の舞台となっただけでなく、近世の日本文化の形成に大きく貢献することになった。特に一休禅師の下に参禅し、侘び茶を創始した村田珠光、更に珠光を継承した武野紹鴎、千利休、小堀遠州に至るまで、多くの茶人や戦国大名が大徳寺と深く関わり、茶の湯文化の重要な歴史遺産としての側面も見逃せない。

 様々な文化財が残る大徳寺の塔頭の中でも、近世の日本建築や庭園を俯瞰するなら、まず孤篷庵は外すことができない重要な建造物のひとつといって良いと思う。
 慶長17年(1612年)に小堀遠州が龍光院内に庵を建立したのが、現在の孤篷庵となった。その後、寛政5年(1793年)の火災によって焼失するが、松江藩主松平不昧公が古図に基づき再建されて現在の姿とされる。この孤篷庵は数年に1回程度、春や秋に特別公開されるが、内部は撮影禁止にも関わらず、決して少なくない見学客が公開の度に全国から集まる。



 孤篷庵の見どころは多いが、まずは不昧公が忠実に再現したとされる茶室「忘筌」を取り囲む空間演出は、見るというより体験しなければなかなか説明が難しいかも知れない。忘筌自体は、九畳と三畳の相伴席から構成される十二畳の広間による茶室で、床柱を面取角柱とし、長押や床框と見た目が一体化された書院造の床の間と、反対側の庭園に面した中敷居にある上半分のみの明かり障子が良く知られている。
 空を明かり障子の格子によって切り取られた八景の庭と呼ばれる前庭の景観は、向って右手に蹲と灯篭が配置され、利休的な草庵の茶というより禅の茶を目指したかのような美意識が表現されている。遠州の茶の湯も、作庭も、「綺麗寂」と称されるように人工的と思える程幾何学的で、西欧建築を見てきたかのように遠景と近景をパースペクティブに配置する特徴がある。更に、幾何学的な全体の中に細部まで端正に計算されたディテールが確認でき、モダニズム的な空間に極めて近い視線の変化による演出が巧妙に取り入れられる。雁行するボリュームにより展開される空間的変化は、移動しながら視線を変えて、その都度新しい発見があるように組み立てられるが、こうしたアプローチはル・コルビュジェなどのモダニズム建築の方により近い。



 ところで、孤篷庵は大徳寺境内から少し離れたところにあるので、境内の塔頭を色々と散策しても見逃すことがあるかも知れない。ひとつ通りを越えて、清閑な裏通りを歩いていくと深い緑の囲まれた孤篷庵の入り口に辿り着く。孤篷庵を訪れた後、改めて大徳寺に戻ると、静かな京都の裏通りの佇まいから一転して観光客で賑わう名刹の光景に舞い戻る。
大徳寺伽藍は、利休縁りの壮大な三門の他、聚楽第の遺構である唐門や江戸初期に建てられた方丈など国宝建造物の方が有名だろうが、江戸時代に建立された法堂、仏殿など典型的な禅宗様建築も、その規模からも見逃せない名建築だろうと思う。日本の歴史の中で常に重要な場所としてあり続けた大徳寺は、その歴史の舞台に立ち会うという緊張感に溢れていて、凛とした禅宗寺院らしい清潔感に加えて独特な雰囲気がある。
 それと、あまり知られていないかも知れないが、大徳寺からしばらく歩いたところに紫式部と小野篁の墓がひっそりと並んでいる。かつて紫式部が生まれ育った場所が、そのまま大徳寺になり、今でも大徳寺の塔頭が墓を管理しているとされる。いかにも歴史のある京都らしい地層のように折り重なった歴史が垣間見ることが出来る。

孤篷庵特別公開 大徳寺三門 江戸時代に再建された法堂