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叡福寺

 大阪府下にある叡福寺は、聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳で広く全国的に知られている。聖徳太子と縁のある日本最古の官道である竹内街道沿い、丁度奈良と大阪の県境にあたる竹内峠の大阪側が太子町になり、その中心部に叡福寺がある。
 聖徳太子の墓所として有名であるにも関わらず、太子町は割合交通の便が悪く、最寄り駅から循環バスに10分程度乗る以外には、なかなか移動手段が限られる。そのせいか、教科書に載るほど知られた場所な割には、観光地とも言えない静かな市街地の古刹といった趣がある。

 古くはこの叡福寺周辺は「近つ飛鳥」、そして現在の飛鳥が「遠つ飛鳥」と呼ばれた場所で、「飛鳥」という地名は二つあり、古来から重要拠点だったように伺える。大阪湾と奈良盆地を繋ぐ主要路の中継地として古来から発展し、要衝となる地に聖徳太子は墓所を自ら定めた、と伝えられている。太子没後100年ほど経った後、聖武天皇の勅願により神亀元年(724年)に叡福寺は建てられた。



 聖徳太子の居住地だった斑鳩の法隆寺と、四天王寺や古代の港だった住吉津、その住吉から飛鳥までを繋ぐ官道をして整備された竹内街道は、特に良く知られていると思うが、聖徳太子と縁のある寺院は、この叡福寺の他にも大阪府下には幾つか散在している。その大半は太子信仰と密接に関わるが、中でも墓所でもある叡福寺は重要な役割を担っていた。
 弘法大師や親鸞上人ら多くの高僧が宗派を超えてこの地に参籠した事もあり、最初に日本国内に仏教を広めた聖人として、太子信仰が広く社会に浸透することに少なからず影響したと言えるだろう。大阪や奈良では、今でも聖徳太子は身近な存在として親しまれている。
 また現在の叡福寺は、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が慶長8年(1603年)に再建したものとされる。



 山門を越えて境内に入ると、まず正面奥の山の麓に聖徳太子廟があり、見通しのよい境内の入って左手側、西側に金堂が建つ。その金堂の手前に重要文化財に指定される多宝塔が建てられている。叡福寺は聖徳太子廟を中心として構成された伽藍であり、聖徳太子のための聖地という趣が強い。
 太子町は、江戸時代頃までは相応に栄えた町だったと思うが、その太子町の町並は叡福寺を中心として、竹内沿いに拡大するように成長していったように見える。ただし現在では、どの鉄道の駅からもバスを使わないと中心部に行きにくい不便な場所になってしまい、昔の風情の残る静かな集約といった印象がある。大都市の大阪と日本屈指の観光地である奈良との間に、忽然とタイムスリップしたかのような静寂が残る、古風な集落である。案外、こうした場所が大都市からそう離れていない場所にある、というのが関西の魅力の一つのように感じる。


山門から境内を臨む 聖徳太子廟の西側の金堂 太子町の町並み